WASSY.

Blog

レールから外れた15歳の孤独が、私に生涯の使命を問いかけた

「困っている人を支援したい」
私のモノづくりの原動力は、このシンプルな想いにある。

技術は時に世界を劇的に加速させ、便利さや効率を追求するために使われる。
しかし私は、技術の本質的な価値は、別の場所にあると信じている。それは、一人ひとりの可能性を広げる力であり、「見えない壁を溶かす力」だ。

身体的な制約、環境による障壁、あるいはコミュニケーションの断絶。 それらが理由で、誰かが何かを諦めなくてはならない世界は、あまりに寂しい。
エンジニアとしてコード(プログラム)を書く指先の一つひとつが、社会のどこかにある「過ごしにくさ」や「不便」を解消し、誰もが自分らしくいられるための具体的な解決策でありたい。そう願い続けている。

2026年という新たな節目に、私がこれまで歩んできた道のりと、これから生涯をかけて向き合うべき使命について、ここに記す。

孤独の中に見つけた、自身の輪郭

私のエンジニアとしてのルーツは、決してスマートな成功体験から始まったわけではない。

まずその原点は、幼少期から私の身近にあった二つの世界にある。
障害者支援の仕事をしていた母と、科学館で働いていた父。
福祉の現場への眼差しと、科学技術(理系分野)への好奇心。
この二つが私の中で交わり、「障害のある人を技術面で支援したい」という志が芽生えたのは、自然な成り行きだった。

そんな想いを胸に、中学生の頃、工学を学ぶために地元の小山高専(小山工業高等専門学校)を受験した。
結果は、不合格。
15歳の私にとって、それは世界が閉ざされたかのような挫折だった。

しかし、一度道を閉ざされたことで、逆説的に「なぜ、そこまでして技術を学びたいのか」という問いと向き合うことになった。
単に工学(理系科目)が好きなのか、それとも技術を使って成し遂げたいことがあるのか。
自問自答の末に残ったのは、「ここで止まるわけにはいかない」という静かな、しかし強烈な執念だった。

空白期間を作らないためにも、N高等学校の通信制コースに入学し、いわゆる「仮面浪人」として再受験に挑んだ1年間。N高生として高校1年生の勉強をしながら、高専の受験勉強を続けていた。
再挑戦にあたって、私は一つの決断をした。地元の小山高専を再び受けるのではなく、より設備が充実し、自分に合った環境で深く学べる沖縄高専へ、志望校を変えることにしたのだ。
同級生たちが高校生活を謳歌する中、孤独に机に向かい続けたあの時間は、決して空虚な時間ではなかった。
それは、自分自身の弱さと向き合い、エンジニアとして必要な「粘り強さ」と「目的意識」を育むための、必要な助走期間だったのだと今は確信している。
1年後、沖縄高専への合格を果たした時、私は以前よりもずっと強く、明確な目的を持ってスタートラインに立つことができた。

そして何より、私のわがままを認め、背中を押してくれた両親には感謝してもしきれない。
「もう一年頑張りたい」という再挑戦を受け入れ、さらには地元を離れて沖縄の地へ向かう私を、二人は信じて送り出してくれた。
あの時の支えがあったからこそ、今の私があるのだと改めて強く思う。

現場のリアリティと技術の限界

「技術を使うのは人間であり、技術が解決すべき課題は社会にある」

沖縄高専に入学した2020年。
待ち構えていたのは、世界を一変させたコロナ禍だった。
登校は制限され、授業はすべてリモート。キャンパスライフとは程遠い幕開けだったが、この特殊な状況が、私を加速させた。

当時、県外から来ていた学生のみが入寮を許され、県内生が自宅待機となる中、私は寮の自室という限られた空間で多くの時間を過ごすことになった。
移動や無駄な行動が削ぎ落とされたことで、私は自分のやりたいこと、そしてやるべきことにこれ以上ないほど深く向き合うことができたのだ。

画面越しに授業を受け、その傍らで自分のアイデアを形にする。寮の部屋から一歩も出ずとも、技術を使えば世界と繋がれることを肌で感じた時期だった。
1年次からさまざまなコンテストに出場し、優秀賞や特別賞を受賞するなど確かな手応えを得られたのは、あの閉ざされた空間で牙を研ぎ続けた時間があったからこそだと思う。

だが、机上の空論で終わらせないために、よりシビアな「現場」に出ることを決めた。
高専4年次には個人事業主(フリーランスエンジニア)として開業。学生という枠を超え、プロとして社会と対峙する道を選んだのだ。もちろん、学生としての生活も続けながらの大きな挑戦だった。
ここで特に印象深かったのは、東京の福祉イベントでの出会いがきっかけで参加した、海外企業の病院向けシステムの開発だ。自分の書き上げたコードが海を越え、実際の現場で導入され、人々の役に立っている。
この経験から得たものは、単なる「稼ぐ力」への自信だけではない。自分の技術が誰かの生活の一部になるという責任の重さと、使われることへの震えるような喜びだった。

しかし、技術の力だけで全てが解決するわけではないことも学んだ。
そのきっかけとなったのが、スタートアップで参画した会社の介護DXアプリの開発現場だ。

そこで直面したのは、美しいコードが必ずしも現場の課題を解決するわけではない、という泥臭い現実である。
使いやすさとは何か。現場のオペレーションにどう馴染ませるか。
最新技術をただ導入するだけではなく、そこにいる「人」に寄り添い、技術を翻訳して届けるプロセスこそが重要なのだと痛感した。

エンジニアは、画面に向かってコードを書くだけの人であってはいけない。
デジタルの世界と、フィジカルな課題(現場など)の間に立ち、「課題と技術を繋ぐ架け橋」になること。
それこそが、私の果たすべき役割なのだと気づかされた。

宣言:すべての人が手を取り合える未来へ

私は現在、ありがたいことに、ある上場企業の新卒テックリードとして社会実装の最前線に立っている。
しかし、私の視線はその先にある「包摂的な社会(Inclusive Society)」の実現に向けられている。

高齢者や障害者を技術で支えることが今の私の中心的なテーマだが、中でも障害者支援の分野には特別な情熱を注いでいる。
その具体的な形の一つが、高専在学中から構想を続けている「手話翻訳システム」の完成、そして社会実装である。
手話という美しい言語を、技術の力でより多くの人に共有可能なものにする。
言葉の壁、身体の壁を超えて、誰もが当たり前に意思疎通ができる世界を作る。
それは時に困難な挑戦かもしれないが、だからこそ、挑む価値がある。

AIやテクノロジーは、人間を代替するための道具ではない。人が、より人らしく生きるための「杖」であるべきだ。15歳の春に感じたあの無力感も、現場で直面した課題も、すべては今の私を形作るためのプロセスだった。
「技術は、誰かの支えになるためにある」
この信念は、挫折を知り、現場を知り、それでも未来を信じる今の私だからこそ、迷いなく言える言葉だ。

私は生涯をかけて、この言葉を体現し続ける。
最新のテクノロジーを、最も必要としている人の元へ届けるために。
多様な人々が互いの違いを認め合い、手を取り合える未来を作るために。

これが、私の宣言だ。